小川流煎茶は今からおよそ二百年前、京都の小川可進(1786〜1855)によって始められました。名は弘宜、通称可進、後楽と号しました。荻野台州に医を学んで御典医をつとめましたが、若いころから煎茶への関心が強く、五十歳で医業を廃して煎茶家に転じました。
 わが国での喫茶の歴史は古く、煎茶は文人墨客の余技として古くから親しまれてきましたが、流祖小川可進は茶の真味に基づき「茶は渇を止むるに非ず、喫するなり」と主張し、もと医者であった持ち味を生かして、衛生的かつ合理的な独自の煎茶法をあみ出しました。
 宇治を代表とする日本の茶葉に適した、日本的な煎法や新しい茶器の創案で、煎茶の世界を一新したのは、この小川可進でした。すでに述べてきたように、わが国での喫茶の歴史は古く、また煎茶も当時相当広く行なわれていましたが、四季の移り変わりといった自然界の諸条件や茶の本質的な究明に基づく、独特の煎法の創造は、わが国では、可進によって初めて世に問われたものです。「煎茶の法有る、実に翁を以て嚆矢と為す」といわれ、茶具の選択・配列そして手順など、それまでの煎法に一定の法則をもたらしました。
  しかしその法則というものも「茶には法あって式なし、式はその法中にあり」(『喫茶弁』)といわれたように、いたずらに形式にこだわるものではなく、茶の本来の真味をひきだすための、必然的な手順の積み重ねから成り立っています。今でいう科学的な観察に基づいて、四季十二節の気象条件を考慮し、また医者の立場からの衛生的な配慮も当時としては、ずいぶん革新的なものでした。原理にかない、しかも風雅な煎法には多くの京洛の貴紳も関心を寄せ、近衛忠熙公、一条忠香公それに岩倉具視公なども愛好、また青木木米や頼山陽など交友のあった文人も多く、そこには近代的な思想を持った新しい煎茶家の姿がありました。

小川可進像 武沢楊岸画

 

小川可進著 『喫茶弁』

 

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