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一)近世の煎茶  二)高遊外売茶翁  三)煎茶の後継者達

一)近世の煎茶

 今述べようとしている「煎茶」とは、いわゆる現代の日本人が日常に飲んでいる、緑茶の代表、嗜好飲料の一つである煎茶ではなく、古くから伝えられている風雅な喫茶趣味、あるいは手前や作法を伴う茶道としての煎茶を指すものである。このように冒頭でわざわざ断っているのは、「煎茶」の文字は古くから用いられているが、その対象とする内容が必ずしも一定で無いところにある。
 動詞としての使われ方、つまり「茶を煎じる(煮る)」が初めにあり、次いで茶葉の種類を示す名詞として使われ、その両様の意味の上に立って、新しい喫茶文化の固有の世界を指し示す言葉として「煎茶」が出来上がった。
 ところで、現在日本で茶道と言った場合、「茶の湯(抹茶)」と「煎茶(道)」といった対照的な内容のものが二種類あることになる。これらは茶葉の形状と入れ方がそれぞれ異なるもので、「抹茶」は茶の粉末に湯を注ぎ、撹拌して湯茶の全てを飲む。それに対し「煎茶」は、葉茶に湯を投じ、その茶液を抽出して飲むと言うもので、後者は、紅茶・ウーロン茶など今日最も一般的な茶の飲み方に共通したものといえる。
 この二つの事なる茶道は、明確に区分され、異なったグループを造り、異なった美意識、異なった茶の文化を形成しているところに特色がある。それは、茶の湯は仏経、中でも禅といった、厳しい修行を求められる世界を背景にしているのに対し、煎茶は、道教、中でも老荘思想と深い繋がりを持って、無為自然な、自由な生き方を主張するところにその違いがある。
 『雨月物語』で有名な、江戸時代の小説家・国学者として知られる上田秋成は、『清風瑣言』と題する茶書を残しているが、これは一般に考えられる茶書、つまり茶の湯について書かれたものではなく、「煎茶」について記されたものである。また秋成は晩年に、『背振翁伝』(一名『茶神の物語』)という精神的深度の高い小品を残しているが、そこでは、茶を擬人化して葉を姓とする二人の兄弟に譬え、わが国の茶の流れに二つの方向のあったことを指摘している。
 つまり、かれら兄弟は、かつて中国で皇帝の深い寵愛を得ていたが、国が荒廃し、異民族に征服されたため、難を逃れて中国から日本の長崎にやって来たこと。一人は、栄燿栄華を欲して高僧(栄西)と共に都(鎌倉)に赴き、他の一人は、それとは反対に、九州の深い山中で隠逸的な生活をするようになったことが、端的な比喩によって示されている。つまり、いずれが兄、いずれが弟と秋成は定かにはしていないのだが、一人を抹茶、一人 を煎茶に譬え擬人化していたことは間違いがない。
 この秋成の考えている煎茶は、先程も述べたように、私たちが日常に親しんでいる煎茶とは違った次元のものを指している。それは、涼炉と呼ばれる、形のいい素焼きのコンロに炭火をおこし、ボーフラと呼ぶ湯瓶で湯を沸騰させ、そしてその細い口から湯気が勢いよく飛び出してくるころ、涼炉からボ−フラを静かにおろし、その湯を、茶葉の入った愛用の、中国宜興製の朱泥の急須に注意深くそそぎ入れる。ころあいを見はからって、膝の前に並べられた小さな古染付の煎茶碗に、少量ずつ注ぎ分けてゆく。濃く甘いトロリとした茶液を舌頭に落としてその茶味を楽しむ。これが、今も昔も変わることのない本来の「煎茶」の世界なのである。
 はじめての人は、その茶のあまりの少なさに驚くだろう。しかしまた、この茶を一口舌頭に落としたとき、人はその美味さに一層驚きを新たにするにちがいない。近代の日本文学を代表する夏目漱石が、芸術的な美をテーマとした小説『草枕』の中で、この茶味の素晴らしさを、その名文によって美事に表現していた。
 茶碗を下へ置かないで、そのまま口へつけた。濃く甘く、湯加減に出た、重い露を、舌の先へ一しずくずつ落として味わって見るのは閑人敵意の韻事である。普通の人は茶を飲むものと心得ているが、あれは間違いだ。舌頭へぽたりと載せて、清いものが四方へ散れば咽喉へ下るべき液はほとんどない。ただ馥郁たる匂いが食道から胃の中へ沁み渡るのみである。
と。この漱石の一文からも解るように、実は江戸時代の後期から近代にかけて、わが国の茶道界で勢いを持っていたのは、茶の湯ではなくて「煎茶」だった。この歴史的事実を知る人は意外に少ない。しかし、「茶の湯」を国際社会に紹介する上で大きな貢献をした、岡倉天心の『The Book of Tee』でもそれは明瞭に示されていた。
 彼は、「第二章 茶の諸流」の中で 芸術と同じく、茶にもその時代と流派とがある。茶の進化は概略三大時期に分けられる、煎茶、抹茶およぴ淹茶すなわちこれである。われわれ現代人は、その最後の流派に属している。 つまり此処に書かれている淹茶が、今日のわれわれの煎茶を指し示している。さらに又、煮る団茶、かき回す粉茶、淹す葉茶はそれぞれ、唐、宋、明の気分を明らかに示している。もし、芸術分類に濫用された名称を借りるとすれば、これらをそれぞれ、古典的、ローマン的、およぴ自然主義的な茶の諸流と言えるであろう。 と、的確で且興味深い指摘をしているのだが、「日本の精神」をアピールする事に大きな目的を持っていた本書は、中国的な色彩の濃い煎茶よりも、日本的美意識のより鮮明な「茶の湯」に重点を置いて書かれる事になった。しかし、それは次の野口小蘋の絵画が描かれたとほぼ同時代のことだったのである。
 江戸時代末期から明治・大正にかけて、随一の閨秀画家として知られた野口小蘋に、婦女子の嗜みを題材にしたと思われる作品がある。当時の上層階層の、少女や新妻、嫁入り前の娘など五人の美女が、花を生け、書を習い、盆栽をいじり、そして煎茶を楽しんでいるものである。注目すべきことは、恐らくこれ以前であっても、また以後であっても、その絵の構図は違っていたに違いないことである。というのは少なくとも、婦女子の嗜みの一つとしてとり上げられた絵の喫茶の部分は、煎茶ではなく、茶の湯であったと思われるからである。
 小蘋は、明治四年には、皇后陛下の寝殿の屏風や障子に筆を取り、あるいはその御前で揮毫したり、華族女学校教授になるなど、その名声は高く、影響力にも相当のものがあったと考えられる。その彼女が描いた、婦女子の嗜みとしての煎茶の重みは、一般の認識を遥かに越えるものがあったと言って良いだろう。
 ちなみに皇后陛下とは、昭憲皇太后のことであり、左大臣一条忠香の娘であったが、忠香は、『喫茶弁』(小川可進著)にもあるように、わたしども小川流の流祖小川可進とも親交が有り、煎茶愛好家としてもしられていた。女子教育の振興に熱心であった昭憲皇太后が、煎茶への造詣が深かった事は、その家庭環境からも推し量られるのである。
 また野口小蘋のこの絵は、茶の湯に変わって煎茶が描かれている、ということで注目されるだけではなく、明治・大正期の煎茶を考える上でも多くの示唆に富んだものをも含んでいる。婦女子の嗜みとしては、いささか納まりの悪い感じがする盆栽が描かれているのも、当時の煎茶の世界を覗き見ることによって、なるほどと合点がゆく。
 本来、茶・花・香・書、それに盆栽・盆石などは、いずれも中国文人の文房清玩の生き方に付随するものだった。わが国でそうした文房清玩の生き方に強い関心が示され、さらに自分達の生き方として定着したのは江戸時代後期から幕末の文人社会のことであった。
 この江戸時代に始まる、文人茶としての個性ある「煎茶」誕生の、その直接的な源流 は、岡倉天心が述べていた通り、やはり中国明あるいは清代の文人茶と見なしても差し支えない様である。ただ、精神的な内容ではさらに遠く、中国唐代の文雅な茶、世界で最初の茶書『茶経』を書いた陸羽や、とりわけ「茶歌」で有名な玉川子廬仝にまで溯る。
 中国文人の隠遁生活が、古来わが国知識人の心を深く捉えるものであったことは周知のとおりだが、中でも唐代の白居易(白楽天)、宋代の蘇東坡、陸游など、わが国知識人層の、その影響を受けることの多かった中国の詩人達が、茶を友とし、茶に慰められる生活を送っていた事実は、無視することの出来ない関心事であった。
 このように、中国文人の生き方に対する強い憧憬に端を発し、直接的には明代以降の中国の喫茶法に学び「煎茶」は誕生する。明代の喫茶の、それ以前と異なる大きな違いは、餅茶、抹茶を用いる点茶法に変わり、葉茶を用いることであり、また茶瓶(急須)使用の普及が起こったことであった。最も優れたものとして、今日なおその評価の高い、宜興の朱泥の茶瓶も、その生産の確かな記録は、この明代にまで溯る。文雅な趣の茶瓶に魅了され、煎茶への足を進めたものも多かった。
 また、わが国近世の知識人及び「煎茶」の世界に与えた明代の影響という点で、更に書斎を中心にして発達した、中国における脱俗、文房清玩の生活の様が、より新鮮な内容として受容されていたことも見落としてはならないであろう。

二)高遊外売茶翁

 日本で煎茶が、喫茶趣味として、また煎茶道としての態勢を確立するようになるのは、江戸時代も半ば、京都に、売茶翁と呼ばれる畸人が登場するようになってからである。彼は日本の煎茶道の始祖とも呼ばれ、その果たした役割には大きなものがあった。歌人としても知られた伴蒿蹊の『近世畸人伝』は、当時非常な人気を博した書だが、そこに描かれた「売茶翁」は、また多くの読者の注目を集めた。その茶が、人々の良く知る「茶の湯」ではなく、目に新しい「煎茶」だったという点もあったが、それ以上に、彼の風変わりな茶を売る光景が人々を驚かせたのである。
 売茶翁は京の名所旧跡や風光明媚な所に出掛け、煎茶の立ち売りを始めた。珍しい煎茶器、珍しい茶の入れ方に、市中の風流の徒が喜んだのは勿論だが、「茶銭は黄金百鎰より半文銭までは/くれ次第/ただのみも勝手/ただよりはまけもうさず」といった茶席の看板に、真の風流を見出し喝采を送る人も少なくなかった。しかしこの売茶翁の煎茶は、たんなる世に言う一服一銭の茶と同じものではなかった。そしてそれはまた、生活の糧の為の茶の商いでもなかった。
 「凡そ人茶を売ることを奇として称すといへども、翁の志茶にあらずして茶を名とす。 其平居綿密の行ひはしる人まれ也」と蒿蹊は鋭く見抜いている。つまり、売茶翁の煎茶は、たんなる畸人の奇行として片付けられるものではなかったのである。売茶活動を始めた際の真の目的は、腐敗・堕落・衰退の一途を辿っていた禅僧社会に対し、激しい警鐘を打ち鳴らすことにあった。
 もちろん彼の売茶活動は、既成の禅僧社会を直接攻撃するというものではなく、あくまでも茶の特性に基づいた風流なものであった。つまり一杯の煎茶を売り、一つの心の啓蒙を計ったのである。

  石炉茗を煎じて来往にひさぐ    過客須からく知るべし価半銭     一啜君が為に心腑を洗う     通仙亭上楽しみ悠然たり

と言った詩偈からも明らかなように、彼の行動は、単なる物売りでも、また奇行を衒ったものではなく、深い精神性に裏打ちされた行動だったのである。
 それだけに、彼の煎茶は、次第に独立の道を歩み始めた。当初は「茶によそゑて禅宗の衰へを嘆息」する禅批判の方便であったのだが、その精神を理解し、共感を持ってより熱心にかれの煎茶を受け入れたのは、当の禅僧社会よりも、京洛の文人社会だった。彼の詩偈に見られる文学的抒情性は、文人社会でより歓迎されたのである。
 その、なによりの証しは、彼の煎茶を慕って集まって来た顔ぶれを一見して分る。京洛の文人墨客、つまり詩人、歌人、小説家、学者などの文筆活動をするものや、画家、彫刻家、陶芸家等の芸術活動に携わるものたちであった。例えば、書家の亀田窮楽、儒者の桑原空洞、医者の山科李溪、儒者の宇野士新、さらには大坂の富豪であり博物学者でもあった木村蒹葭堂といった人物から、売茶翁の伝記、『茶経』の解説書を書いた大典顕常、のち画家の大家に数えられる若き日の池大雅、奇想の画家伊藤若沖もこれに加わっている。文人画の先駆者彭城百川とも親しかったことによって、彼の煎茶は、たんに禅の方便に終わらず、文雅の色彩をより強め、独り歩きして行くことにもなった。
 売茶翁は、茶亭「通仙亭」を構え、「清風」の茶旗を掲げて、煎茶による売茶活動を始め、近世わが国の「煎茶」の最初の口火を切った。その「通仙」「清風」の文字は、唐代の詩人玉川子廬仝の有名な「茶歌」に基づくものだったことは言うまでもない。 売茶翁の場合、それは単に詩句の文字の引用に終わるものではなく、廬仝の生き方や思想に深く傾倒し、その影響を強く受けていた。言い換えるならば、売茶翁の煎茶は、廬仝の喫茶精神を継承するものと言っても良かったのである。その軌道修正に対しては、先に述べた京洛の文人との交友がすくなからぬ影響を与えていたものと思われる。

三)煎茶の後継者達

 中国明代の文人達の文房清玩の生き方は、いわゆる明末清初、漢民族の支配する国家が衰退、異民族の支配する社会の現出などによって、才能有る有為の漢民族の知識階層が、活躍の場を失い、あるいは反異民族の立場から、現実を逃避し、文房生活、風雅の世界に遊んだことに起因している。つまり明代の文人輩出の歴史的背景には、漢民族の支配する国家の存亡を伴った、大きな時代の変動があった。
 そうした時代の落し児としての文房清玩の生き方は、やはり、わが国でも、江戸幕府の衰退、幕藩体制の硬直といった封建社会の矛盾露呈期に、より一層の共感を持って迎え入れられたようである。売茶翁の活躍以後の近世後期から幕末の文人達は、政治的・社会的な野望を失い、生気を失った封建社会に背を向け、詩文や絵画の世界に没入していった。 有為の者達が多く野に放たれていたことも、文人煎茶が爆発的な流行を見る要因になっていた。閉塞した自由のない社会。厳しい身分制の制約を受け、才能が認められない社会に対しての失望は、彼らに世を睥睨し、高踏的に生きる方向に向かわせた。そうした時、その理想となり手本とされたのが、中国の文人に見られる、悠々自適の隠逸的な生き方だったのである。
 山中で茶を煮る詩人の画が彼らに生活のヒントを与えた。中国の喫茶愛好の文人を崇敬し、その行動を模倣することによって、自分たちの反俗と反権威の意識を再認しようとした。この時、高遊外売茶翁やその時代の文人たちの脱俗隠棲、文房清玩の生き方がより身近な手本となり、煎茶が彼らの生活の中により深く入っていった。
 近世日本の文人煎茶は、寛政のころから、とりわけ文化文政以降幕末明治にかけて、質量共にその最盛期を迎え、優れた文人が輩出することになる。例えば、青木木米は、陶芸の世界で秀れた煎茶器を制作、京焼きの新しい時代を切り開いた人物である。詩文書画の素晴らしい才能を陶磁器の上に発揮し、文人趣味に即した茶器の制作は、仁清・乾山以後の京焼に活力を与え新風を吹き込むものであった。
 南画家として世界的な評価を受けている田能村竹田は、やや高踏的といった感じはあるが、しかし清澄で、格調の高い、風雅な煎茶の世界を、そして幕末の文人グループの中では、誰よりも盧同を敬愛し、その理想の茶の境地を築くことに、もっとも熱心な一人であった。詩・書・画三位一体の理想的世界を、後に見る様に、竹田は煎茶の世界に求めていたといっても過言ではない。
 近代日本誕生の上で、ドラマチックな役割を演じた幕末の志士たちの中にも、煎茶愛好家は少なくなかった。かれらに見られる様な、武器を手にしての激しい社会行動も、その外見からのみで判断されることは、現実を大きく見誤ることになるだろう。盧同の「百万億の蒼生」に対する暖かい情が、時と所を越えて人々の胸を打つたように、志士達の多くは、優しく暖かい、人間的な心情に富んでいたのである。故郷の百姓一揆の際、決死の思いで藩主への「建言書」をしたため政治を批判した田能村竹田。志士達の心に、激しい正義の血をたぎらせる『日本外史』や『日本政記』といった歴史書を書いた頼山陽。そしてついに幕政批判の直接行動を起こした儒学者の大塩中斎や志士の藤本鉄石。
 いずれも、廬仝が示していた「清風颯颯」の理想の世界の実現のため、明治維新という時代の変革に向かって立ち上がった真摯な者達であった。しかし、それは激動の時代での止むを得ない選択であって、一時的ではあったが、平穏な中、煎茶に親しんだ日々の内にこそ、むしろ私は彼らの人間的な優しさに満ちた、本来の姿を見る思いがするのである。
 このように、中国明代に始まる新しい茶葉とその新しい飲み方に立脚した「煎茶」は、売茶翁高遊外を中興の祖とし、上田秋成、田能村竹田ら近世の文人達の手によって大成され、さらに文化・文政期以降、花月菴鶴翁・小川可進などの煎茶家を誕生させる。小川可進の煎茶は、特に本人が意図したわけではなかったが、周囲から可進流、小川流と呼ばれることによって、自然発生的に家元の体裁をととのえ、江戸時代の終わりには、花月菴流と並び、煎茶の二大流派として活躍することになる。
 煎茶の世界での家元制の端緒が開かれ、明治・大正期になって、新たに煎茶の茶道としての動きが活発になると、小川流・花月菴流の流れを汲み、独自の動きをするものも多くなり、次々に煎茶の家元が誕生することになる。 その間旧体制の江戸幕府が倒れ、明治新政府のもとでの新しい時代の幕開けの一時、初めに述べたような煎茶全盛の時代が、暫くの間現出していたのは、文人たちを巡る以上のような歴史的背景があったからなのである。

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